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世界旅行記

世界20カ国以上を旅し、イタリア在住15年の著者が、個人で回った世界中の場所についてと、旅に役立つ情報を公開します。

ドバイの歴史と社会。ラクダと砂漠の民からランボルギーニと摩天楼へ。その1

ドバイの50年前と今日

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広々と広がる砂漠。

これがドバイのほんの50年−60年前の姿だといいます。

 

そして、今日。

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ドバイはこの50年ほどの間に、奇跡的な繁栄を実現しました。

オイルマネーがあるから、こういうことが可能だ」

と私たちはシンプルに考えがちですが、あながちそうでもありません。

 

現に、ドバイにはもう殆ど石油はないのです。

アラブ首長国連邦の石油の産出は、隣の首長国アブダビに90%以上を負っており、ドバイには石油は殆どありません。

 

ドバイの繁栄は、オイルマネーに焦点をあてるよりも、その都市繁栄戦略に焦点を当てたほうがよりよく理解できます。

 

ドバイの成り立ち

 

ドバイの首長の祖先は砂漠の遊牧民族で、家畜の群れを牽きながらオアシスからオアシスへと遊牧していました。

いわゆる、ベドウィン、砂漠の遊牧民です。

バニ・ヤス族の分派、アル・ブ・ファラサ族900人が1833年、水を求めてドバイまで遊牧してきました。

そのときの首長がマクトゥーム・ビン・ブティで、現在のドバイ首長マクトゥーム家の初代首長です。

そこで海から水が内陸に入り込み、入江を作っている場所に行き当たります。そこは、内陸の湖のようでありながら、海水の逆流で出来ている入江です。

部族はそこで魚をとり始めます。そのなかで、牡蠣を見つけ、牡蠣の中に真珠を見つけます。

最初は真珠の価値がわからなかった彼らも、それが乾燥した砂漠地帯で、希少な果物や野菜と交換できるということがわかり、彼らは海に出て、真珠の猟をはじめます。

そのようにしてこの部族は真珠猟とその輸出販売生計を立てていました。

 

ちなみに、この場所がデイラ地区を中心とするドバイ・クリークで、ドバイの旧市街です。ドバイ出発の原点として観光名所にもなっています。

 

イギリスとの関わり

インドの東インド会社と交易をしていた18世紀のイギリスは、ドバイを海上交通の要所とみなしていました。

そして、そのドバイ近辺の海域には、バニ・ヤス族と並んで二大勢力となっていたカシミ族が海賊として出没しており、この海賊を討伐する名目で、イギリスはカシミ族と1804年から1819年まで交戦をしていました。

この交戦に勝利したイギリスは、必然的にドバイ海域とドバイに影響力を及ぼし始めました。

当時のドバイは、少数の部族民と、多くのインド人からなっており、19世紀の後半の人口は約4000人。そこにイギリス人が干渉しているような状況でした。

つづく

sekairyoko.hatenablog.com